アルコール依存症のために僕はアルコールを一切絶っている、ゆえに自分は偉いと思っている、自分をホメテあげたいと思う。 これは欲望を我慢、自制しているからエライって事だよね。でも、ふつうに 『偉い』 というのは、一体どういうことなんだろう?ってすこし考えた。

 まず、社会的ポジションの高位、という意味。権力を持っているということ。「権力」とは「自分で決められる裁量の大きさ」ともいえる。自分以外の人や社会への「影響力の大きさ」という意味もある。その裏返しとして「責任」も大きくなる。
 この場合の「エラさ」には、社会的なラダーがあって、スゴくエラい人、次にえらい人、そのつぎにエラい人、、、と続く。 つまり、人間関係の中で「相対的な」価値観ということになる。その考え方を進めれば、陰湿なイジメや差別につながる危険な考え方だろうけれど、クールにみればサル山の猿たちと同じで、社会生活を営むためにはそういうヒエラルキーはある意味必要なのかもしれないね。永田町のテリトリーもクールに決めてほしい。

 「自分に対する影響力大きさ」という意味もある。 学校の先生は「エラい」か? 年長者というだけで「エラい」か? 僧侶・牧師などの聖職者は「エラい」か?

 YesでもありNoでもある。「無条件でレスペクトするされる」価値があるかどうかなんてわからないので、儒教的アジア的価値観ではそういう「お約束」になっているということか。

 飛び抜けた才能のある人、超人的な努力をして成り上がった人も「エラい」とされる。これはたぶん「その人の代わりがいない度」なんだろう。たとえば、イチローは最高にエラい。彼の飛び抜けた才能は、彼にしかないものだからには無条件のレスペクトが向けられる。この場合のエラさは、その価値の高さが一般的にはお金で換算できることになっているので、ダントツのお金持ちであることが多い。
 だけれど、ふつうのお金持ちが「エラい」か?といえば、ホリエモンが「エラい」と見なされないように、多くの場合で「エラい」とは扱われない。もちろんその人に「商売」が関わる場合にはいっぱいモノを買ってくれる「エラい」人という、ちやほや扱いは受けるだろうけれど。「エラい」人と「エラそうな」人は全然ちがうもんね(笑)。賞賛と非難は表裏ということもあるし、やっかみや嫉妬も尊敬と紙一重のところにある。

 もちろん本来的な意味で、「偉人」としての「エラい」人というのもある。「素晴らしいことをしている」人、「常人の出来ない事をしている」人、さらには「人のやらないことを黙々としている」人とか。

 もう少し考察を続けてみよう。 PS:昨晩、デザートに到来物の田園調布で有名なケーキを食べようとしてたら、うちのテーが、、、これお酒の香りがするって発言あり、ゼリーとかケーキなど洋菓子ではよくある事なのだ、そして僕は食べるのを我慢した、偉い!自分(笑)