マイクロソフトのエンカルタ総合大百科(CDとか)の販売やサポートが中止になっている。

 昔たぶん1980年代までは、わりと多くの家庭は自宅に百科事典を持っていて、大判のしっかりした装丁の百科辞典が本棚に並んでいるものだった。ブリタニカとかアメリカーナとか。我が家には英語版と日本語版の平凡社の大百科事典が客間に鎮座していた。

 本棚に立派な百科事典が並んでいる・・・というインテリア的な意味(当時の日本人は欧米のインテリ家庭を至上のものと思い込んでいて、彼らの自宅の「書庫」に多くの立派な本が並んでいるのに大きな憧れを持っていたんだろう)と虚栄心が満足させられ、(隣でも買っているのでウチにも的な>笑)購買意欲をかき立てられたという「判りやすい」効果があったことは確かだ。

 でもはっきり言って無駄使い(たぶんかなり高かったと思う)であったことは確かだ。今の時代では考えられないことだけど。でも、なぜあの当時のあんなに大きな本を自宅に所有するということが流行ったんだろう?セールスの上手さだけではないと思う。スゴく高いし、大きいし、すぐに古くなってしまう情報なのに、それを恭しく置いておくという風潮はまさに昭和のアノ時代の空気だったんだろうかと今思う。そこそこ知的な興奮と満足感が得られるし、教育熱心な家庭(に他人に思われる)「必需品」アイテムだっただろうし、山の手の小市民的な虚栄心を満足させるものだったんだろう。

 とはいえ、これは決して否定的に書いているわけではなく、高度経済成長の真っただ中にあった当時の日本の社会の上昇志向とか、家庭の真面目さとか教育に対する熱心さとかを表していると思う。少なくとも僕は家にあった百科事典に、かなり影響を受けたことは確かなのだから(笑)

yae

 清水谷公園のある紀尾井町は町名の由来からわかるように江戸時代、紀伊、尾張、井伊のそれぞれの屋敷があった場所である。隣接するグランドプリンスホテル赤坂は江戸時代まで紀州徳川家の上屋敷があり、清水谷公園付近で隣の井伊家の屋敷と接していた。

井伊家との境目付近が谷だったことと、井伊家との境目付近の紀州徳川家の屋敷から清水が沸き出ていたことから、付近は「清水谷」と呼ばれた(ただし現在は清水は涸れて、人工的に復元したものが公園内にある)。

その後の明治11年(1878年)、当地付近に自宅を構えていた大久保利通が暗殺されるという事件が起きた(紀尾井坂の変)。この事件は人々に衝撃を与え、後に暗殺の現場となった当地に大久保利通哀悼碑が建てられた。

哀悼碑の建立者から当公園付近が東京市に寄贈されたのを受け、都市計画で公園として整備され1890年に「清水谷公園」として開園された。現在では6.27mの高さの大久保利通哀公悼碑を中心に、心字池や各種樹木があり、界隈を行きかう人々の憩いの場となっている。

かつてはデモ集会の場としても知られた。特に周辺を含め八重桜が多く植わっており、シーズンには多くの人々が訪れる。2001年に公園の一部がリニューアルされた。